2022年


ーーーー9/6−−−−  人間関係の縮図


 
母親がリモートワークの日、5歳のめぐちゃんは一人で寂しく過ごす。幼稚園は、まだ二学期が始まっていないのである。絵本を読んだり、オンラインの学習用具で時間をつぶす。そして、ひたすら姉のはるちゃん(小2)の帰りを待つ。

 午後になってはるちゃんが帰宅すると、めぐちゃんは喜びいさんで出迎える。そしていっしょに遊ぼうと、姉に迫る。しかし学校から戻ったばかりで、疲れが見えるはるちゃんは、テンションが低い。しつこく付きまとう妹がうっとおしくなる。普段は仲よく遊んでいる二人だが、こういう状況下では、次第に険悪な雰囲気になる。ついに喧嘩が始まる。あんなに待ち焦がれていた姉と、泣いたりわめいたりの大騒ぎを展開する。

 悲しい出来事である。思い描いた幸せは、心がかみ合わず砕け散る。世の人間関係の、縮図を見るようである。




‐ーー9/13−−− 猿のいない夏


 7月の中ごろ、庭の畑の枝豆が実ってきた。農事担当のカミさんは、それを確認すると、戦々恐々となる。猿に食べられる心配があるからだ。

 このところ毎年、ちょうど食べ頃に実った枝豆を、突然現れた猿にやられる被害が続いた。どのようにしてそのタイミングを判断するのか分からないが、実がプックリと膨らんで、「明日収穫しよう」などと言っている矢先に、狙われる。それを恐れて、八分程度の実りで収穫するという、苦渋の決断をすることもある。猿に根こそぎやられるよりは、それくらいの実りでも食べた方がましだという考えである。

 今年も、初物は早めに収穫した。取れたての枝豆を茹でて食べれば、極上の味である。しかし、実が小さくて、いささか不満足。「美味しいけれど、ちょっと実入りが悪いな」と感想を述べたら、カミさんは憮然とした表情で、「猿に食べられるよりはましでしょう」と、吐き捨てるように言った。

 その日を皮切りに、毎日収穫が続いた。ところがである。猿は食べに来なかった。枝豆だけでなく、他の野菜も無傷だった。要するに、猿はこの夏、我が家の庭に一匹も現れなかったのである。結果的に、十分に実った枝豆を、連日収穫することができた。大量の枝豆を、毎日のように食べた。これほど枝豆を堪能したのは、数年前に猿が現れるようになってからは、初めてのことである。

 逆に言えば、昨年まで、これほどふんだんに枝豆が食べれず、いささか寂しい思いをしてきたのは、猿にやられていたからだと理解された。それほど、猿がやることは徹底的であり、情け容赦が無いのである。

 それにしても、いったい何が猿たちに起こったのだろうか? 年々エスカレートしてきた、猿による食害が、これほどピタリと止んでしまうのは、ちょっと不気味なくらいである。これが我が家だけの事なのかは分からない。時々遠くで、猿脅しの発砲音が聞こえるから、猿が出ている場所もあるのかも知れない。しかしこの夏、近所で猿を見たことは無かった。

 あんなに憎かった猿たちだが、群れに何らかのトラブルが発生し、活動に支障を来し、生存の危機が訪れているのではないか、などと想像すると、ちょっと可愛そうな気もするから、不思議である。




ーーー9/20−−−  もがな


「言わずもがな」という言葉を、たまに使うことがある。なんだか古めかしい言葉だが、意味するものは、「言わなくても良い」あるいは「言うまでもない」といったところか。

これまで気にせずに使ってきたが、最近になって「言わず」と「もがな」の二つの言葉が連結して出来ているものだということに気が付いた。では「もがな」とは何か? 現代では、「言わず」とセットで使われるより他には、目にする機会も無いように思うが、「こうあって欲しい」という願望を示す言葉だそうである。

百人一首には、この「もがな」が使われている歌が五首ある。

 名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな

 忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな

 あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

 今はただ 思い絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな

 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも

 

上に引用した五番目の「世の中は・・・」の歌では、「もがもな」となっているが、同じ意味であるらしい。ちなみに作者は鎌倉幕府の三代将軍源実朝である。

こうして見ると、古い時代には普通に使われていた言葉のようだが、現代では既に絶滅した感がある。かろうじて「言わずもがな」に名残りを留めていると言うことか。

私は、これといった目的も目標も無く、百人一首の暗唱を趣味としている。このような古めかしい言葉を知ることになったのも、百人一首の解説本を読んでいて目にしたから。そこで得た知識を、これ見よがしの誹りも顧みず、記事にした次第。識者から見れば「言わずもがな」のことであろうが。




ーーー9/27−−−  大相撲とエベレスト


 大相撲の秋場所。数年前から相撲ファンになった私は、いつもより早く仕事を切り上げ、夕方5時にはテレビの前に陣取る。そして酒をチビチビやりながら、相撲を見る。それに合わせてカミさんが用意した肴が、テーブルの上に並ぶ。私にとってこの時間は、至福のひとときである。

 最大級の台風14号が日本列島に接近しつつあった日、5時過ぎにテレビのスイッチを入れたら、台風関連のニュースをやっていた。それがなかなか終わらない。他のチャンネルで相撲をやっているかと探してみたが、無い。相撲を見たくて仕方ない私は、次第にイライラしてきた。5時20分ころになって、突然相撲に切り替わり、何事も無かったかのようにして中継が行われた。しかし、ニュースで中断していた間の取り組みは、無視された。

 このNHKのやり方に、不満たらたらの私であった。台風情報が大切なのは分かるが、相撲を楽しみにしている視聴者もいるのだ。ニュースを流して相撲をつぶすなら、その旨画面で表示をし、別のチャンネルで相撲を放映するなどの対応をすべきではないか。状況も知らされないまま、いつ終わるかも知れないニュースを見させられる相撲ファンの気持ちも、察してもらいたい。

 ところがである。私と同じような気持ちの人ばかりではないようだ。たまたまネットで目にしたところでは、台風が接近しているのに相撲中継に戻したことについて、批判的な意見が多数寄せられたらしい。台風の被害が迫っているのに、相撲の中継などをしている場合じゃない、という意見である。毎年のように大きな自然災害が発生している昨今である。安心安全が最優先されるのが現代の世相だから、そういう意見が出るのも当然かも知れない。もっともな意見ではあると思うが、批判を寄せた人たちは、普段から相撲に関心が薄い方々だったのではないかと想像した。

 そこで過去の出来事を思い出した。

 1988年の5月に、エベレストの山頂からテレビ中継をすると言う、人類史上初の出来事を、日本テレビが企画した。登山隊は何日もかけて少しずつ高度を上げ、ついに頂上アタックの日をむかえた。狙ったのかどうかは定かでないが、その日は5月5日の祝日であった。この企画のために特別番組が組まれ、昼間のほぼ全ての時間帯がこの番組に当てられた。登山愛好家である私も、テレビをつけっぱなしにして、世界最高峰の山頂からの生中継を待ち受けた。

 ところが、このレベルの登山となると、なかなか予定通りには進まない。だいぶ遅れが生じて、用意された特別番組の時間内では、山頂に達することができなかった。そこでテレビ局は、番組の枠を延長して中継することにした。なにせ世界初の快挙が目前に迫っているのである。その判断は当然だったと思う。スタジオには高名な登山関係者や評論家、さらにこの企画を後押しした国会議員までが集まっていて、登山隊の挙動を注視していた。

 ここで具合が悪かったのは、特番の後、定時に予定されていた番組であった。たしか巨人阪神戦だったと記憶しているが、野球中継が組まれていたのである。延長された特番であるが、登山隊の動きに間が生じると、野球中継に切り替わった。そして登山が新たな局面を迎えると、また特番に戻る。野球とエベレストの切り替えが、何度も繰り返され、完全にドタバタの様相を呈してきた。見ている方は落ち着かず、イライラしてきた。

 世界初の出来事と、特に目新しい事でもない野球中継。事の大小から判断すれば、当然エベレスト中継が優先されるべきである。と思うのは、登山に関心があり、しかも野球に興味が乏しい、私のような人である。しかし、野球ファンにしてみれば、楽しみにしていた試合が、登山の特番なんぞに食われてしまっては、面白くないのだろう。おそらく放送局には、熱烈な野球ファンから、語気荒い抗議の電話が殺到したと思われる。画面に見て取れたテレビ局の混乱ぶりは、痛々しいほどであった。

 同じ状況に接しても、趣味や好みによって人の心の有り様は大きく変わる。それは、思想、哲学、人生観というようなものより、はるかに人の心を支配するインパクトが大きいように思われる。